| > ウツ まとめありがとう。 本当にありがとう。 納得の行くところですし、そんときの雰囲気もそんなだったと思います。 「褒める」ということに対する呪縛が幾分解けた気がします。
その時は「ただ自分の褒め方が悪いから」が唯一の理由であると思い込んでしまったわけですが、相手にそれを受け入れる体勢が整ってなかったことも一因であるわけですな。 褒めてもダメな点を指摘してもヘコまれうるなら、どっちもやって、どっちの技術も上げていくべきだということですね。
んー、でもそうすると、信念が固まってない人は、褒めてもダメな点を指摘してもヘコむ可能性があるな。 あ、正解はそういう人には何も言わないことなのか。 いや、信念を持ちうる部分というのは幾つか分かれているので、信念を持っている部分だけを褒めるというウルトラ技(テクニック)を極めるべきなのか……っ!
■批評という言葉 了解。 厳密ではない意味で使ってました。 以後気をつけます。
でも私がやってることは「感想」ともちょっと違う気がするんですよね。 感想というと読み手が主観を述べて終わりという、一方通行なイメージが私にはします。 私が本当にやりたいのは、最善の一手の追求です。 極限まで最適化され、これ以上どういじってもそれ以上良くならない理想の作品という状態へは、どうすれば近づけるのか。 相手と私とでやり方が違うのならば、少なくとも一方は「最善の一手」ではないと私は考えます。 もちろん双方が「最善」ではないこともしばしばありますが、いずれにせよ相手か自分がより良くなるチャンスだと思っています。
誤解されそうなので先に言うとくと、「最善の一手」と言っても誰もがその方法を使うべき絶対のものではなく、あくまで自分の中でのルール事です。 双方が相手の持っているルールを理解できて、その上で各々が相手のルールを採用しないと考えるならば、それは双方にとってより良い位置に立てたことになると考えています。 ということで上の段落の文を厳密に表現するならば、以下のようになります。
>『相手と私とでやり方が違うのならば、少なくとも一方は「最善の一手」ではないと私は考えます。』 ↓ 『相手と私とでやり方が違うのならば、少なくとも一方は「私にとっての最善の一手」ではないと私は考えます。』
だから私は、私のやり方と違うやり方を見たときに「私だったらこうする」と表明するのですが、それは半ば私のやり方をより良い方向に導いてくれることを期待しているわけです。 我々の差異が何処に起因するのかについての議論がしたいわけです。 ということで、言葉遣いとしては、「検討」が近いのかな。
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