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No1646 の記事


■1646 / )  Re[16]: ふしぎふしぎ〜
□投稿者/ ウツダ -(2006/07/01(Sat) 03:35:57)
    >K.TEN氏
    >当面はROMの方向で

    了解です。以下の僕の文章はレスを想定しないものということで一つよろしく。

    ■「ディレクション」とは
    >編集的なという部分を言葉を換えると、「ディレクション」だとおもう。

    言葉遊びかもしれないけど、僕が前のレスで書いた「指導」とシンクロしてませんか?
    編集的=ディレクションというのはちゃんと理解できてなかったので、
    まあ、これで一つ話が進んだ気がします。
    感覚的に言うと、「批評」が「遠い/近い」という関係であるのに対して、
    「ディレクション」は「上/下」という関係のような気がします。
    導く人は、導かれる人より、上位の存在でしょうから。
    同じ非対称な関係といっても、横軸から縦軸に変わっている。
    ここらへんが、問題の本質を浮き彫りにしてると思います。

    つまり僕が前に書いた「批評者は、批評される側と同じ立場でないといけない」から
    「批評者は、批評される側より上位の立場でないといけない」
    というとこまで話が進んだのではないかなと。
    これはかなりいい議論だなぁと思います。

    K.TEN氏は前にどこかで「技術的なことは上手い人が教えないと意味がない」
    と書いていた記憶がありますが、
    僕は最終的には、「作品をどういう方向で伸ばすか」という話も、
    その思想面で上位の人でなければ、導く、ディレクトすることはできないのではないかと思います。
    これは雑誌の作家と、担当者という、社会制度に規定された関係ではなく、
    純粋の実力の上下を要求されるという意味で、かなりタイトですよね。

    たぶんそこで僕なんかは
    「批評(ディレクションとしての批評と解釈して)してる人たちは実力が伴っているのか?」」
    という疑問があって、不満がでてくる。

    ※機関屋氏の意見は、そういうタイトさを自分に課すかわりに、
    他人にも適用し、批判するという戦法なんでしょう。
    僕も昔はそういう論法でしたが、それはやっぱり自爆的、
    刺し違え的、敗北主義的でよくないと今では思います。
    タイトさを自分に課している姿は努力しているように見えるけど、
    そのタイトさを満たさない自分を認めることで、同じ理屈を他人にも適用し
    「お前らも私のストイックさを見習え」というのは、詭弁だと思う。
    タイトさを満たさない自分を潔く諦めることで、その潔さを美的なものにしようとする。
    でもそれは結局、努力を諦めて、問題を投げ出してる自分の正当化でしかないよ。
    それとも、その諦めが「自分が最高に努力した上での結論だ」と言い切れるのか?
    僕は言い切れなかった。だからそういう考えを捨てた。

    ■ディレクトできる部員が存在するのか
    話がそれましたが、とりあえず問題点として
    「ディレクションする批評は、実力が上の人でないと難しいだろう。
    では誰がその要件を満たすのか?」
    というデリケートなところに行き着くわけです。

    しかしこれはちょっと議論する気にはなれない。
    結局、そういう部分に思考停止する人たちは、
    「批評したい人がし、批評される側は好きなものを採用すればいい」となり、
    あるいは思考を続けても、
    「漫研内にそんな実力の圧倒的な差などないだろう。
    したがって漫研内での批評はそもそも無意味だ。」となってしまうのではないか。
    結局、これが漫研の病なのではないかと思うわけです。

    >商業の場合は作家の特性と市場の動向を鑑みて、編集長が決定する場合が多い。

    やはりここが決定的なんでしょうね。
    編集者は「部数をなるべく伸ばしたい」という目的を持っていて、
    どんな作家に、どんな作品を描かすように「ディレクション」するかという問題が、
    抽象的な意味で定式化できる。
    簡単に言うと、問題意識が明確で、それゆえ自分から積極的に対処できるわけです。
    だから、編集者から作家へとどんどんコミットできる。
    だが、漫研では、批評者の目的と、批評される側のそれとが一致しているという保障がない。
    それに、批評者の目的というのが、「相手の漫画を自分の理想に近いものにする」という、
    観念的なものにならざるをえない。

    それに、批評される側の問題意識の低さも指摘しておきたい。
    僕は昔誰かを批評しようとして
    「君はどういう漫画を最終的に描きたいの?プロで例えると誰?」
    と聞いたことがあったんですが、
    相手は「よくわからない」と答えました。
    それで僕は、何も言わなかった。言えなかった。
    そういう部員は多いでしょう。僕だってそうかもしれない。
    かといって自分から「君はこういう漫画を描くべきだ」とはなかなか言えない。
    そういう、批評する側と、される側が互いに方向性(まさにディレクション)を見出せない、
    それゆえ指導(ディレクト)できない。

    だから漫研で行われてきた「批評」なるものは、しばしばそういう問題意識が欠落した
    表層的なコマワリ論、台詞論、印象論に終始せざるをえなかったのではないか。

    ■今後の展望
    これまでの漫研分析はこれぐらいにして、
    もっと話を明るく前向きな方向へ持っていかないといけない。

    それでやっぱり、ディレクションっていうのは、いい概念だと思う。
    少なくとも今まで行われてきたものより、建設的なアプローチだろう。
    (そもそも、「今までの批評よりベターな批評とは何か」という議論自体が
    今までの漫研に比して、画期的に建設的だと思うが。)

    「批評から指導へ」「コメントからディレクションへ」というのは
    今後しばらく自分のお題目にしていこうかな、と思う。
    もっとも、実際に人を指導できるレベルになることがまず先決だし、
    仮にあるレベルに至ったとしても、それで他人に助言できる範囲は極めて限られている。
    指導という言葉に引っ張られて傲慢になる気もないし、
    かといって自分を卑下しすぎてシニシズムに逃げるのも不誠実だ、
    という無難なところがひとまずの落としどころか。

    ※厳密な意味での「批評」を英語に訳すとcriticismになるが、
    漫研での批評は英語で言うところのcommentに近いように思う。
    commentは「論評, 批評, 意見」というふうに訳されて、
    少し意味に幅を持たせている言葉で、便利な言葉のようだ。
    日本人が議論が苦手なのは、こういう痒いところに手が届く言葉が
    現代日本語に実装されてないからなのかも。
    気の利いた英語を見つけたとき、少し劣等感を感じる自分がいる。

    僕が例会で何回かやったセミナーっぽいことは、
    プロの作品にコメントをつけることで、
    広い意味では新入生にディレクションを与えるものであったと信じたい。
    ふと思うが、ディレクションさえ与えることができれば、
    本人の作品にあれこれツッコむ必要は必ずしもないのでないか。
    K.TEN氏は「モチベーションを考えてあげよう」と書いていましたが、
    それは僕もおおむね賛成です。
    それで、モチベーションを下げないやり方として、
    「作品にコメントせず、〆切前にできるだけ自分の考えを説明し、
    ディレクションを与える」ってのもアプローチの一つではないかと。
    そういう意味で、自分でも知らないうちにいい方向に歩めているのかな、と少し安心した。
    批評なんかよりあーいう行動の方が僕はやりやすいし、実効性もあると信じている。
    (逆に言うと、僕は今まで行われてきた批評の実効性にかなり懐疑的である。
    しかし実効性の有無は証明が難しいから、議論にはならないだろう。)
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