| 水崎の批評にツッコミたいのでツッコミます。 >4ページ目の1コマ目で、非常に流れを止められます。 >おそらく、いきなりコミカルタッチになっている理由がわからないからです。 >あのコマに僕は、「すごいよマサルさん」のボケツッコミ展開における、 >ボケとツッコミの間に挟まる1コマ >のような印象を受けました。そしてその前後にそのような展開が無いので、 >違和感を感じたのだと思います。 >単に間をおくコマならば、コミカルタッチにする必要な無かったように思います。
水崎にとってコミカルがどういう定義なのかわかりませんが、とりあえず「過剰なデフォルメ」とほぼ同義いうことで話をすすめます。まあ、どこからが「過剰」か定義できないので、結局曖昧ですが。
まず水崎の書き込みではっきりさせてほしいのは、なぜコミカルタッチではいけないのか、という理由です。この書き込みでは、うすたの手法しか提示されてないですが、 >そしてその前後にそのような展開が無いので、違和感を感じたのだと思います。 これではまるで棒人間はうすたの手法でしか使ってはいけないかのような言い方に読めます。たぶんそんなつもりはないのでしょうが、要するに「うすたとは使い方がちがう」→「だからコミカルタッチは駄目」という理屈のつなげ方は無理があると思います。「何故このときに急にコミカルタッチになるのは好ましくないないか」ということの本質に全然触れてないですよね。私がこんな批評をされたらまったく納得しません。
つぎに、 >いきなりコミカルタッチになっている理由がわからないからです。
読み方はひとそれぞれですから、理由がわからない/意図が読めない人がいる可能性は常に存在します。それはいいのですが、わからないならまず本人にどういう意図があるか聞いてから批評するのが筋ではないですか。批評は批評される側のためになることが第一ですから、その人がどういう意図で演出したのか、それがなぜ読み手には伝わらなかったのか、書き手が伝えられなかったことを、どうやって改善するか、というところから批評がはじまると私は思っています。つまり、「書き手が何を伝えたいかわからない/読み取れない」なら、それ以上批評できないのではないか、と私は思います。「わからない」のに、何を批評するんです?実際、そのあとの書き込みで水崎は「自分がなぜわからないか」を考察し、正当化しようとしていますが、これは結局水崎の読み方を分析しているだけで、いっぺい氏の漫画を批評しているとはいえない状態に私には見えます。
そもそも、私がこのコマを見たときは、・コマが小さいから・二人がぽつんといる感じがでるから・作業的に、それほど時間をかけるべき場所でもないから。(もし時間があるならもっと別な場所に使うでしょう。)という3点から十分合理的なコマに見えます。読んでいて流れがとまることもなかったです。もちろん水崎が違和感を感じたなら、それをもとに水崎が批評するのはまったく正しいです。ただ、水崎がこのコマに上の3点以上の何か演出的合理性を求めるなら、まずそういうことを求めることが正しいということを先に保障すべきだと思います。機能や理論だけで描ける漫画はないと思います。かならず一定の割合で感性、印象、「なんとなくこれでいい気がする」という意識で描かれている部分が存在するわけです。演出上致命的な部分はもちろん理論で攻めるべきだと思いますが、それほど致命的でない部分ならある程度「無根拠、非合理」を認めてほしいな、と私が批評される側なら思います。もっとも水崎にはあのコマが致命的に感じられたのかもしれませんが。
最後に、素朴に疑問なのですが、4p1コマ目のようなデフォルメは、2pでも使われていますよね。これは違和感はないんですか?教えてください。
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